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第一問   次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

 「オタク」という言葉を知らない人はいないだろう。

それはひとことで言えば、コミック、アニメ、ゲーム、パーソナル・コンピュータ、SF、特撮、 フィギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称である。

この一群のサブカルチャーを「オタク系文化」と呼んでいる。  コミックやアニメに代表されるオタク系文化は、いまだに若者文化としてイメージされることが多い。 しかし実際には、その消費者の中心は1950年代後半から60年代前半にかけて生まれた世代であり、 社会的に責任のある地位についている30代、40代の大人たちである。 彼らはもはやモラトリアムを楽しむ若者ではない。この意味でオタク系文化はいまや日本社会のなかにしっかりと根をおろしている。  

ポストモダンの時代に人々は動物化する。そして実際に、この10年間のオタクたちは急速に動物化している。 その根拠としては、彼らの文化消費が、大きな物語による意味付けではなく、データベースから(a)チュウシュツされた 要素の組み合わせを中心として動いていることが挙げられる。

彼らはもはや、(ア)他者の欲望を欲望する、というような厄介な人間関係に煩わさせず、 自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で演出してくれる作品を単純に求めているのだ。

 とはいえ、このような主張には反論があるかもしれない。なるほど、オタクたちが作品に向ける態度は動物化しているだろう。 つまり、欠乏−満足という単純な論理にで動くものになっているだろう。

しかし彼らは同時に、それなりに社交的な人々としても知られているのではないか。 オタクたちは実際には、他者との接触を避けるどころか、インターネット上のチャットや掲示板、 現実世界での即売会やオフ会などを通して、きわめて多様なコミュニケーションを展開しているのではないだろうか。 そしてそこには、他者の欲望を欲望する、というこの複雑な関係もしっかりと働いているのではないだろうか。

オタクたちはいまでも、世代にかかわらず、友人とコレクションを競い、嫉妬し、(b)キョセイを張り、 時に党派を作って誹謗中傷を投げ合っている。 このような振る舞いはまったく「人間的」であり、この10年間で特に変わったわけではないし、これからも変わらないだろう。

とすれば、オタクたちが動物化し、彼らから欲求の水準が抜け落ちつつある、と主張するのは あまりに一面的ではないだろうか。  ところがそうではないのだ。なるほど確かに、ポストモダンのオタクたちも「人間」であり、欲望と社交性と備えている。 しかしその欲望と社交性のありかたは、やはり、かつての近代的な人間からずいぶんと離れているのである。

 オタクたちは現実よりも虚構のほうに強いリアリティを感じ、そのコミュニケーションもまた大部分が情報交換で占められている。 言い換えれば、彼らの社交性は、親族や地域共同体のような現実的な必然で支えられているのではなく、 特定の情報への関心のみで支えられている。 したがって彼らは、自分にとって有益な情報が得られる限りでは社交性を十分に発揮するのだが、 同時に、そのコミュニケーションから離れる自由もまた常に(c)リュウホしている。 携帯電話の会話にしろ、インターネット上のチャットにしろ、不登校や引きこもりにしろ、 そのような(イ)「降りる」自由は、オタク系文化にかぎらず、90年代の社会を一般に特徴づけてきたものだ。

 私たちの生きる時代とはそもそも、たいていの生理的な欲求を動物的にすみやかに満たすことができる時代である。 それが個々人の豊かさの実感に繋がっているかどうかはともかく、この点で、現在の日本が先行する時代に比較し 圧倒的に便利である事は疑いえない。 そして、オタクたちの社交性は、そのような社会に適応して生み出されている。

現実の必然性はもはや他者との社交性を要求しないため、この新たな社交性は、現実に基盤をもたず、 ただ個人の自発性にのみ基づいている。 したがって、そこでいくら競争や嫉妬や誹謗中傷のような人間的なコミュニケーションが展開されたとしても、 それは本質的にはまねごとであり、いつでも「降りる」事が可能なものでしかないのだ。 コジェーヴならばこの事態を、オタクたちは社交性の実質を放棄したが、その形式だけを維持していると述べるかもしれない。 繰り返すが、このような傾向は、90年代においてはもはやオタクたちに限られたものではなかった。

 そして社交性のこのような形骸化を補うように台頭してきたのが、まさに小さな物語への関心の高まりなのである。 ポストモダン=動物の時代においては、世界は、小さな物語と大きな非物語、シミュラークルとデータベースの二層構造で捉えられる。 そしてそこでは、深層に大きな物語がない以上、生きる「意味」を与えてくれるのは表層の小さな物語だけである。

データベースは意味を与えてくれない。だからこそ90年代のオタクたちは、作品を解体し、分析し、再構成する欲望を持っていながら、 いや、むしろそれゆえに、作品の表層に宿るドラマに素直に感動していくのだ。  これは一面だけ見れば、現実の方では感動する事ができないので、虚構のほうで感動を求める、 というよく指摘されているオタクたちの心理である。 しかし、筆者がここでわざわざ「ポストモダン」や「データベース」といった概念を用いて論じてきたのは、その変化が、 (ウ)単に感情の場所が変わっただけでなく、質の変容を伴っているからなのだ。

ルソーを持ち出すまでもなく、かつては、共感の力は社会を作る基本的な要素だと考えられていた。 近代のツリー型世界では、小さな物語(小さな共感)から大きな物語(大きな共感)への遡行の回路が保たれていたからである。

しかしいまや感情的な心の動きは、むしろ、非社会的に孤独に動物的に処理されるものへと大きく変わりつつある。 ポストモダンのデータベース型世界では、もはや大きな共感など存在しえないからだ。 そして現在のオタク系作品の多くは、明らかに、その動物的処理の道具として消費されている。 このかぎりで、オタク系文化における萌え要素の働きは、じつはプロザックや向精神薬とあまり変わらない。 そしておなじことは、また、ハリウッド映画やテクノ・ミュージックなど、さまざまな娯楽産業の働きにも言えるのではないか。

 そろそろ結論に入ることとしよう。データベース型世界の二層構造に対して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。 それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に(d)クドウされ、前者では動物化するが、後者では擬似的に形骸化した人間性を維持している。 要約すればこのような人間像がここまでの観察から浮かび上がってくるものだが、筆者はここで最後に、 この新たなる人間を「データベース的動物」と名づけていきたいと思う。

 (エ)近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、 同じように人間固有な社交性を通して満たすことができた。 言い換えれば、小さな物語と大きな物語の間に相似的に結ぶ事ができた。  しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通して満たすことができず、 むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。 そこでもはや、小さな物語と大きな物語の間にはいかなる繋がりもなく、 (オ)世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。

 

[注]

○ポストモダン−−−ポスト(post-)は「後の]「次の]の意味。モダン(modern)の終わった後の事。 または次に来る時代。

○萌え要素−−−全体の物語とは無関係に、断片のイラストや設定などから勝手に感情移入を強めていく要素。

○オフ会−−−オフライン会の略。ネット上ではなく、実際にあって話をする会。

○コジェーブ−−−Alexandre Kojeve(1902〜1968)フランスの哲学者。

○シミュラークル−−−オリジナルとは区別されない複製(simulacre)。

○ルソー−−−Jean-Jaques Rousseau(1712〜1778)。フランスの思想家・作曲・哲学者。

○ブロザック−−−向鬱剤の一種。

 

 

設問

(一)「他者の欲望を欲望する、というような厄介な人間関係」(傍線部ア)とあるが、なぜ厄介なのか。理由を述べよ。

(二)「『降りる』自由」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「単に感情の場所が変わっただけでなく、質の変容を伴っている」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「近代の人間は、物語的動物だった」(傍線部エ)とあるが、なぜ「物語的動物」なのか。その理由を述べよ。

(五)「世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。」(傍線部オ)とあるが、なぜそのように言えるのか。この文章の論旨をふまえて100字以上120字以下で述べよ。

(六)傍線部a・b・c・dのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。